氷舞










……ぃ……ぃいいいいぃぃいんっ……







「!」
思わず僕はびくりとして振り向いた。
(何だこれ……っ)
皮膚に感じる火の粉。
焦げた空気。
風に乗って届いたそれは、形容しがたいほど不快な感覚を最後に引き連れて来た。
おそらくは空気の波動であろう、それは―――熱波。
もちろん爆心地に近くはない。だからちりっと痛いだけだったが……
(回廊の、方向……)
眼を凝らすと、緑と青を引き裂く様に黒煙がある。
「兄上……?」
あれは、爆発。
(どうしよう……どうすれば……)
生身で堪えうる衝撃などたかが知れている。
ゼロは怪我をしなくても彼は無事だろうか?
緑の髪のあの人は?
兄上、は……?
「っ!」
果てしなく不吉な予感がする。
今行かなければならない気がする。
しかし。


『お前は行くのだ』


足が動かない。


『―――走れぇっ!!!』


向かうべきはアルデバラン。
あの耳に染み渡る低い声が鋭く命じる。





ああ、でも。





(僕は―――)





自分以外の、ただ一人の人。
あの強靭な身体と精神は、それでも自分と同じもの。
皮膚が切れれば赤い血が流れる。
骨が砕ければ身体は動かない。
……息が、鼓動が、止まってしまえば―――


「っ!!」


漠とした、その衝動が、震えるこの身をひるがえす。





* * *





「う……」
額を押さえて身を起こす。
(流石に無傷とはいかぬか……)
額か瞼か、止めどなく流れる血が手の平を染める。
眼に入らない様にとその箇所を押さえる。
(ゼロ、は……)
前方には無残に砕けた柱と床。
先程まで自分と刃を交えていた存在は、跡形もない。
(死んだ、か……いや―――)
こんな爆発程度で死ぬとは到底思えない。
痛覚はなく、受けた傷もほぼ瞬時に回復する。
そんな奴が串刺しにされて爆発したからと言って安心できるだろうか?
(―――否)
満ちる気配が何よりも明白に、未だ危機の去っていない事を教える。
血を滴らせながらも刀を構える。
(どこ、だ?)
痛みと流血と、それに伴い抜ける力を振り絞る。







「―――お捜しですか、アルテア……?」







どんっ。




















耳元に触れた、凍る声。
生暖かい感覚、打ち込まれる杭。
溢れ出す血の匂い。














しかし戦慄よりも痛覚よりも早く私の背筋を打ったのは―――叫び。




















「あ……あああっ…………あにうえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」















生け垣の奥から来た悲痛な絶叫は、死の危機に陥った私にすら聞こえていた。










* * *










瓦礫の中に落ちながら、不意に失った記憶がよみがえる。
暗く深い海水を上りながら、あの時を思い出す。













霞む視界に、金の髪の少年が映る。
(行けと言ったのに……初めて、私に逆らったな)
声に出して叱ってやりたかったが―――それを思う事しかできなかった。
逆流する血の塊が喉を塞いで湧き上がりつつあったからだ。
それでも。
「逃げ……ろ……」
「……あにうえ?」
そんな消えていく世界の中でも、掠れた声を血と共に吐き出す。
―――同時に、身体ごと傾ぐ。
「口を開くのはお止めなさい。貴方に死なれては困るのですよ」
眼の先に下がる先端。
てろんと光を弾く艶を見せる。
元々朱色のその棍が、今は紅に濡れている。
流れる真朱の群濃を描く。
他ならぬ私の血で。
「ゼロ……!」
「安心なさい。彼もスペアとして必要なのですから殺しませんよ」
「やめ……ろ……」
「まあとりあえず今日の記憶は不要ですから、消しておきますね」
「―――止めろっ……」
その言い様に首をねじりゼロを見上げる。
しかし既に血溜まりへと半ばその身を沈ませた自分に反撃の力はない。
それを知るからこそゼロは薄く笑みを浮かべて見下ろす。
「何を必死になっているのです?」
「……」
「ただ人と言うだけで、それ以上に何の繋がりもない個体にそこまで己を分けて―――」
「……違う……」
ぬめる手で棍を握り締める。
出ない声で言葉を繰り返す。
それに反応してか、ゼロの表情が僅かに固まる。
……そんなものがどうしてその時の私に見えたのか。
もう視覚も閉じつつあったのに。



「違う……あれは、スバルは……」



ゼロが口元をひきつらせて一歩下がる。
それでも掴まれた得物は動かす事ができない……私が動かさせない。



「……スバル、は……」



斜めになった棍に縋って、半身を起こす。
そして血の匂いに凍るスバルの眼前で―――



「―――それで……も!!」



命を燃やして、紡ぐ。
暗転する世界の中、偽らざる私の思いを。





「……それでも、スバルは―――あれは私の弟だ……!!」




















(……水が、重い……っ……!)





削られていく体力はこぼれ落ちていく砂の様に止めどない。
それでも暗い視界の中、真っ先に思うのは二人が無事逃げられただろうかと言う事。



無事を確認できぬまま離れるしかなかった私を許して欲しい。



あの時、待ち受ける孤独よりも、私は妹の生存を望んだ。
強く美しく成長してくれた姿を見た時、選択は間違っていなかったと思った事を……ベガ、お前は許してくれるだろうか?
人生の大半を私と共にすごした弟は、私が力ないばかりに電子の牢獄へと残してしまった。
すまなかった、スバル。
私だけでなくお前の記憶もゼロに触れさせてしまった。
盾にすらなれず、あの星に一人で置き去りにしてしまった。



約束を、破ってしまった。



けれど、もう、同じ事はしない。



結末は、もう繰り返さない。



悲しい終焉は、もう眼の前に作り出したりはしない……!

















「っあ……がほっ!」
肺に入ってきた空気で海面まで上がった事を知る。
打ちっぱなしのコンクリの台に手をかけ、引きずる様に自分の身を押し上げる。
「はっ……う……」
重力を再び感じた私に追い討ちの如く疲労がのしかかる。
しかし、まだ動く事ができる。
過去とは違い私にはまだ戦う事ができる!





(私の身体……もう少しで良い、動いてくれ……)





過去とは違う結末を得る為に。
―――何かに祈って私は立ち上がった。









<終>




氷舞
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